〇〇論

評論めいた雑談を〇〇論と評してみる。

「待つこと」論

「13:00に駅に集合ね」と言われる。となれば、5分前くらいには駅につきたいもの。そう思って少し早めに家を出る。おっと、12.50分に駅に着きそうだ。これくらいだったら誰か一人くらい既にいるんじゃないかな、なんて思いながら駅の改札を出る。

誰もいない。

さて、ここから「人を待つ」という行為が始まる。これはなかなか難しいことなのではないかと最近思う。

そもそも人を待つとはなんだろうか。あらかじめ来るとわかっている人を待ち構えることだろうか。なんだか攻撃的な言い方である。しかし「待つ」ということはそういうことなのではないだろうか。人を待っている間はいろいろ考える。「いつ来るだろうか」「どんな格好だろうか」「どんな雰囲気だろうか」などなど。これは待ち合わせ場所に向かおうとする「待たせている人」も同じなのだが、こちらは「まずは目的地に行く」という何よりも大事な要件だあるためじっくりと考える余裕は前者に比べてない。「待つ人」はこれらを考える余裕がある。というよりこれらを考えるしかない。しかも「待たされている」立場である以上、どこかこちら(待つ人)のほうが立場が上のようにも思える。先に目的地についている時点で立場は明確になっているのだ。どんな顔をして迎えてやろうか、と頭の中で様々な出迎え方を想像しておく。あまりに気持ちの準備をしすぎるから、気持ちがどんどん構えてしまう。したがって「待ち構える」。

もしも「待つ人」と「待たせている人」が連絡を取れる状況であるなら悲惨だ。

「もう駅にいるよ」

という連絡が「待たせている人」のもとへ届いたとしよう。「待たせている人」にとっては、しまった、という気持ちだ。待たせてしまっている、早く行かなければ、と言う気持ちになってしまったならもうお終い。これから向かう場所にいるのはただの友人ではなく自分を迎え撃つ何者か、となってしまったのだから。

このように書くと「待つ人」のほうが優位に立って良いように思える。しかし「待つ人」にも苦悩はあるのだ。あんまり早く待ち合わせ場所に着くのもよくない。というのも、あれこれ相手のことを考えているうちに「まあ、無事に到着してくれればいいか」みたいな気持ちになってしまう。これが実は一番いい状態だしあるべき感情なのだろうが、残念ながらこれでは立場の上下はなくなる。もう待ち構える気持ちではないからだ。言うなれば「待ち望んでいる」。また、「待つ人」の気持ちもそこまで余裕はない。相手の出迎え方を考えてしまうのが「待つ人」の性であるが、答えは一向に出ないというものだ。「よし、こんな感じで待っていてやろう」となるのは稀で、大抵そうなるまえに相手が到着する。経験上そうなることを知っているから、相手が来る前になんとか出迎え方を自分の中で用意しなければと思う。しかしいつ相手が着くのがが正確にわからないと気持ちは焦ってしまう。なんだ、こんなに焦ってしまうのならばもっとゆっくり到着してもよかった、と自分の行動を恨む場合もある。このように「待つ人」というのも悠然と待つだけでも、余裕をもって待ち構えているわけでもなく、もっとギリギリの感情で「待たせている人」のことを考えている。

あくまでここまで書いたことは自分の経験上の話である。だから、ここまで書いていて思った。僕は待ち合わせには向いていない。

路地裏論

子供のころ、誰だって何かを考えていた。どうにも大人になると考えなければいけないことと考えなくてもよいことの見境がついてしまってよくない。効率的に生きてしまう。そんな訳で無駄なことを考えてみたいという人間が欲を張って、それを他人に見てもらいたいとまで思ったのがこのブログというわけ。そしてその第一回の主題は「路地裏論」。

僕は路地裏が好きなのだ。だから最初のテーマはこれにしようと決めていた。とは言っても全国各地の路地を知っているわけではないから浅薄な路地裏論、そこを承知で読んでもらえると嬉しい。

どこかへ行こうと家を出る。てくてくと歩いている。ひょっとしたら自転車に乗っているかもしれないがここは徒歩が都合がいい。なぜなら小回りが利くからだ。見回せば整備されにされた町である。それはそれで興味深い光景もあったりするが、コンクリートジャングルとはこうも息苦しいのか、なんて思ったりする。どこもかしこも同じ景色じゃないか。ああ嫌だ嫌だ、早く目的地に着かないかなあ。そんな時、少し落ち着いて周りを見渡す。意外と自分の心境のせいで見落としているものがあったりする。何度も通っているはずの道をいつもよりゆっくり歩いてみる。無論。音楽プレーヤーはポケットにしまいイヤホンも外す。そうして道を見てみると…。ほら、道ならぬ道があるじゃないか。これこそコンクリートジャングル。こんな道あったっけな、楽しそうだな、と興味を持ってしまったら「路地裏好き」としては行くしかない。

道幅は広くてはいけないし、細すぎてもいけない。2メートル幅くらいだろうか、ちょうどいい道幅は。路地裏一つ取っても様々な視点で論ずることができそうだが、ここではできるだけ一般論を展開してみようかしら。

そもそもなぜ路地裏(単に細い道も広義の”路地裏”として含むことにしよう)が魅力的なのか?と考えてみるとそこには必ず子供のころの経験があるのだと思う。僕の通っていた学校へは歩いて通っていた。毎日同じ道を歩くことはやはり退屈だが、さすがは子供時代、そんな中でも楽しく歩く方法を日々開発していく。その中でも路地裏へ行くことは最もエキサイティングな体験だった。正規の通学路、というものがあるのだがそこを外れて細い道へ入り込む。当時の僕はこれがなんだか悪いことをしているみたいでとてもドキドキした。(実際悪いのだけれど。)このドキドキがいつの間にか、探検に伴う興奮感と相まって路地裏を通って帰ることの虜となってしまった。とにかく当時の僕としてはこの小さな道に自分の知らない世界があるような感覚があった。そして、正規の通学路から一本道を外れただけでその世界に迷い込む、という感覚が重要である。一つの町、一つの道をとっても表情を変えギャップが存在している奇妙さ、これこそ人の住む町の魅力であると思う。町の持つギャップ、という意味で路地裏が楽しい。簡単に言うと結論はこれ。僕が未だに細い道や怪しげな路地を見つけて迷い込みたくなるのはそういう魅力があるから。つまり、この町がよく知る街だったりきれいに整備された町であるほど面白い。全体的に路地裏みたいな怪しい町だったら面白くないのだ。全体的に路地裏だったら路地裏が表になってしまっている、これはダメ。怪しさが薄まる。高層ビルが立ち並んでいたり、暖かな空気が流れる商店街、住宅街、こんな町の路地裏こそ魅力的だ。誰が通るのか、この道が存在する意味は何なのか、さっぱり見当もつかない。この町には似つかわしくない様相、そんな道。しかし道はあるということは何か必要性があったのだろう。使う人間がいたはず。それはなぜ?それは誰?そんなイメージをするとまるでこの路地裏が1つの舞台のように思えてくる。どうだろう、これを読んでいるあなたも路地裏を旅してみたいと思ってきたのでは?

路地裏に本格的に目覚めたのはおそらく京都へ行ったとき。ウナギの寝床、なんて言われているくらいでそもそも間口の狭い建物が立ち並んでいるのだが、その隙間もまた狭い。これが、猫が出入りするだけのただの隙間だったら何てことないのだが、町が展開されていたりする。そしてその奥に京懐石のお店があったりするから面白い。その時は路地裏と高級料理屋、という組み合わせが非常にギャップに思えた。今じゃ「隠れ家的名店」みたいに紹介されてむしろ高級料亭らしさが出るかもしれないが当時の僕は路地裏に立派なお店が構えられていることが奇妙でたまらなかった。京都という町自体が手の込んだテーマパークみたいだと思った。それ以来、いい感じの細い道や路地裏が気になるようになった。路地裏への感覚細胞は京都で開花したと言っていいだろう。そしてその感覚は東京で育まれることとなる。まさしく育んでいる最中。勝手なイメージだが、タモリは東京の路地裏に詳しそうだ。万が一会う機会があったらよい路地裏を紹介してもらおう。でも、タモリが路地裏に関する本を書いてしまったら絶対読まないようにしよう。路地裏はその町とのギャップに魅力があるのだからあまり多くを知ってから行っては面白くない。路地裏探索は発見的なエンターテイメントなのだ。

路地裏論、まだまだ書ける。また気が向いたらこの続きを書こうと思う。もしかしたら考え方が変わるかもしれないのでその時もまた書こうと思う。それでは、今回はここまで。